妄想と閃きと霊感で書く日記

妄想と閃きと霊感で書く日記

Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

移転

tiwitterは、それほど面白く無いと思っていたが、なかなか面白くてブログより書きやすくて便利だった。

という訳で移転します。

ここにはまた気が向いたら書くことにしてそれまで放置します。

http://twitter.com/#!/rudwig_roland
スポンサーサイト
*CommentList

競争社会と獣の道


large.jpg



自然界は、弱肉強食の領域で廻っている。

当然、人間もその本能を備えている。

しかしながら、人間は、他の生物にはない理性や利他心、良心などを持ち備え、その廻から逸脱した存在であるともいえる。

私は、この弱肉強食の領域からの逸脱した領域は、ある種の神の領域といえるのではないかと考えている。

弱肉強食の領域を獣の道とするなら、この神の領域は、惟神の道とも言えるだろう。

つまり、人間とは、獣の道と惟神の道の間に存在する中庸的な存在であるともいえる。

私は、人間は中庸な存在であるがゆえに、選択によってそのどちらの道にも偏れるのではないかと考えている。

現代の社会は、競争主義社会であり、社会全体が獣の道に偏りがちであるともいえる。

全ての人々が快適で幸福に暮らせるように文明を発達させて来たのではなく、

いつの間にか競争に勝った一部の人間が快適で幸福に暮らせることだけを考えた社会になっている。

競争に勝った勝者は成功者として人々から持て囃されているが、

視点を変えると、切り捨てられた敵兵の亡骸の山の上に座り、頭蓋骨で作った盃で酒を飲む

何処ぞの第六天魔王の姿のようにも見える。

そう考えると、成功者を持て囃し、憧れる人々は、悪魔教の信者のように見えてならない。

勿論、どちらの道に偏るのか或いは中庸なままで居るのかは個人の選択であり、それが人間の面白い所でもある。

資本主義の限界

occupy-wall-street-rich-homes.jpg


アメリカでは連日、裕福層の富の独占に反発してデモが行われている。

数年前はティーパーティー運動と呼ばれる小さな政府を主張し、新自由主義を推進する運動が行われてきていたので

ここに来てアメリカ人の主流の考えが一変してきたと言っても良いだろう。

ある意味、資本主義の幻想が打ち砕かれ始めた象徴的な出来事になっている。

私は、資本主義経済自体が欠陥システムだからこうなる事は当然の成り行きだと考えている。

例えば、田舎の商店街がイオンに駆逐されたように自由競争によって効率の良く商売する企業だけが生き残って、

徐々に世界の富が一部の者に集中していき、残りは低賃金で雇われる貧困層に転落する。

国も税収の減少と財政支出の増大に伴い、財政赤字を膨らませていく。

消費できる中流層がいなくなり経済の循環も乱れ始め、長期的な不況が発生する。

末期になると貧困層の不満が爆発し資本主義のシステムは崩壊してしまうだろう。

資本主義の末期が誰の目にも見えてきた今日この頃であるが、

日本の官民共同体は、未だに新自由主義経済を推進するTPPに参加する移行で話を進めている訳だが、

顛末がどうなるかはもう分かるだろう。

村社会の功罪

古代の日本人にとって神は畏れ敬う存在であった。

これは日本列島は自然に恵まれているが、同時に災害も多い土地であったためである。

古代人にとって災害は神の祟りや怒りと考え、それを鎮めるために祭祀を行った。

特に歴代の天皇はこの祟りを恐れ、幕末の孝明天皇の代になるまで神社の社頭に立ち直接参拝することは無く、

代理人を介して参拝したり、一切参拝しない時代もあり、唯一、皇祖神の天照大御神の祭祀だけを毎年行った。

この辺りの話は、日本のタブーになってしまうのでやめておこう・・・

このように、今日の日本神道に沢山の祭祀(祭り)があるのはこの為である。

祭祀を行うに際しては、その地域の人々の結束が不可欠であった。

この結束が集団の協調性を生み、日本人が幾多の災害を今日まで乗り越えて来た原動力になったのである。

しかしながら、この強い集団の協調性は、負の側面を見せる時がある。

集団としての意思が尊重され、個人の意思が蔑ろにされてしまうのである。

この集団の意思が間違った方向に進めば大変な事態を招いてしまう。

大東亜戦争では、一歩間違えれば一億総玉砕の危機に陥った。

今回の原発事故でも放射能流出を風評被害と捉え、実害として危険視しない現地の集団の意思が強い。

人間は、集団でしか生きていくことが出来ないが、時として集団が誤った方向に進んだら、

その集団から抜け出すという選択枠も必要になってくるのかもしれない。

理性の限界

人間は、他の動物には持たない理性という心を持っている。

理性は、人間が文明をつくりあげる上で必要不可欠なものであり、

人間が万物の霊長たる所以は理性にあると言っても良いだろう。

現代では物質文明が発展し、人間の理性が発達、珍重され、絶対の信頼が置かれるようになった。

そんな時に起きたのが3.11大震災である。

昔から絶対安全と持て囃されていた原発が爆発して無残な姿になってしまった。

その時、政府や東電の関係者が頻繁に口にした言葉は「想定外」というものだった。

私はその言葉を聞き、原発は人間の理性の象徴であるように思った。

理性は、元となるマニュアルや教科書のような知識の想定を超える事態が起きると、全く機能を失ってしまうのである。

現代文明に於いて絶対の信頼が置かれていた理性がぐらつき始めた象徴的な出来事であろう。

勿論、理性は、人間が生存していく上で必要不可欠なものであるが、依存しすぎてはならないということだ。

特に現代文明に生きる我々は、理性的な観念に囚われすぎている。

これからは、人間の理性以外の能力を見つめ直し伸ばしていくことが次の時代への鍵になるだろう。

左サイドMenu

プロフィール

Lotus

Author:Lotus

最新記事

最新トラックバック

右サイドメニュー

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。